私のマンガ遍歴(『きんぎょ注意報』~いくえみ綾)

 “マンガ”に関しては、そこまで通じている方ではない。
 特に最近は時折気になったものを読む程度で、巷で人気の「進撃の巨人」「キングダム」……、「ワンピース」でさえも今なにがどうなっているのかまったく知らない。「NANA」も「ハチクロ」もよくわからない。

 それでも人並み(?)程度には触れてきたと思われる。そんな私のマンガ遍歴を、パッと思い出せる限りでここに連ねてみるとする。

 保育園年長時、初めて親に買ってもらったマンガ単行本は、「セーラームーン」か「きんぎょ注意報」ではなかったかと記憶している。

 小学生時代。『りぼん』を毎月購入。
 指定金額分の切手を同封して郵送する、“全プレ”(応募者全員プレゼント)。母親にねだって切手を買ってもらっては毎回のように応募した。(現在でもあるのだろうか?)
 吉住渉の「ハンサムな彼女」が好きで、矢沢あいの「天ない」には全くハマらなかった。
 また、弟のおかげで『ジャンプ』黄金時代にも立ち会うことができた。「ドラゴンボール」「幽☆遊☆白書」「スラムダンク」「るろうに剣心」etc……。その中でなぜか私には「リベロの武田」がウケていて、桂正和先生の「電影少女」にドキドキし、なにわ小吉の「王様はロバ」にニヤリと笑わされていたのである。

 中学生時代は、『別冊マーガレット』。
 永田正実恋愛カタログ」の高田くんに恋をして、実果とのほんわかカップルに憧れた。
 またマンガではないが、ジブリの「耳をすませば」の聖司くんに心奪われ、「私、バイオリン弾ける人と付き合うんだ!」…などと周囲にのたまっていた。

 そして、いくえみ綾。(いくえみ作品は現在も追い続けている)
 “さわやか、優しい、かっこいい”がお決まりの、ある種浮世離れした少女マンガの男性キャラの中で、時にヒロインを冷たく突き落とす、いわば“性格の悪い”いくえみ男子たちは私を痺れさせた。
 重みのあるストーリーも、女子中高生が主だった読者である『別マ』のキラキラマンガ群の中では、他と一線を画していて異質だった。「キスミークイック」や「ケチャップマヨネーズ」……そして、「ラブレター」(茅野くん)が私は大好きである!
 絵柄にしてもストーリーにしても、少女マンガ少女マンガしたものは昔から得意ではなかったのかもしれない。(今はなおさら照れてしまって読めない)
 「恋愛カタログ」にしろいくえみ作品にしろ、現実味のあるものに魅かれた。そこからより突っ込んで現実色の強い、『フィールヤング』系のマンガに流れていく。(つづく)

 

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ケチャップマヨネーズ (ヤングユーコミックス コーラスシリーズ) | いくえみ 綾 | 本 | Amazon.co.jp

おそろしい客観(絲山秋子『薄情』)

 「あまりものを言わずに暮らしていると客観性を失う。自分の都合で考える癖がつく。思うことと口に出して言ったらおかしいことの区別が曖昧になってくる。客観性が乏しくても嘘を言うことができないから余計に自己矛盾が増すのだ。自分の内面の身勝手さがじわじわと外にしみ出していることに、……。」

 絲山秋子さんの小説『薄情』の内の一節である。
 これを読んだ瞬間、私は横っ面を思いきり張り飛ばされたような衝撃を受け、思わず本を閉じた。
 折しも私はその数日前に、元恋人へ向けて、まさに“主観”のみで書かれた別れの手紙をポストに投函したばかりだったからである。

 主観とは、
その人ひとりのものの見方。
 客観とは、
当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考えること。また、その考え。
客観性とは、だれもがそうだと納得できる、そのものの性質。

 とある。(出典:デジタル大辞泉

 “恋”は主観でするものだ。
 一心不乱の恋とは、時に人を狂わせる。
 恋人に対する荒ぶった感情は、客観性をあえて無視してでもぶつけずにはいられない。それは抗えない“欲求”なのだった。
 恋に憑りつかれている人間は、互いの、もしくは自分の“想い”こそがすべてだと信じる。二人の間に、賢明な第三者の声など割り込ませたくないと耳を塞ぎ、結果的に自ら暗い穴の中へと落ちていくことがある。
 また、恋する相手、だからこそ許せることがあり、だからこそどうしても許せないことがある。どうかすると、それは烈火のごとき憎しみへと発展してしまう。
 感情の球体。その恋情の真裏には憎悪が存在する。相手に対して、ひたむきに執着するからこそである。
 だが世の中には、恋も仕事も趣味も遊びも、バランスよく楽しむ人々もたくさんいるそうで、私はそういう方々が本当に羨ましい。

 自らについて、客観性を持って冷静に、俯瞰で眺めることは時に必要である、というのはわかる。
 しかしそうすると私は、私の考え、こうして熱心に書き連ねていることも、なんだかすべて意味がないように思えてきてしまうのだった。
 主観で見たときの個人の一大事は、客観で見れば些末なこと。
 それに気付くと、心にぽっかり穴があく。
 ぼんやりとした虚無感に気持ちを吸い取られて、何も書けなくなってしまう。
 私の悩みや苦しみも、どうしても言いたいこと伝えたいことも、客観的に見たら何の意味もない。
 “客観”は怖い。
 なんだか全部が虚しくなって、生きること、自らの存在自体に空虚さを感じてしまう。遥か上空から見下ろされれば、私は一人、立ち尽くす。

 

薄情 | 絲山 秋子 | 本 | Amazon.co.jp

恍惚の瞬間(ドストエフスキー)

 ドストエフスキーの小説の中で、癲癇(てんかん)持ちである『白痴』のムイシュキン、『悪霊』のキリーロフの二人が、その発作前のほんの一瞬間、
 「そのためには全生涯を投げ打ってもいいと思うほどの美と調和に満ちた瞬間」
 がやってくると言っている。
 これは“恍惚前兆”と呼ばれ、こういった発作のあるてんかんは“ドストエフスキーてんかん”とも呼ばれているらしいが、これはドストエフスキーの文学上の創造なのではないか?という意見もあったようだ。

 私は今回調べてみるまで、それをずっとドストエフスキー自身の体験として記憶していた。かつて何かで彼の体験談として読んだ気がするのであるが、私の勘違いだったのだろうか。

 その恍惚とは果たして一体どんなものなのだろうと、私は思いを馳せていた。

 現在は滅多に起こらなくなったが、以前は年に四回くらい、私は過換気症候群の発作を起こした。
 症状としては、呼吸の困難、手の震え、頭痛、嘔吐などが挙げられる。
 その発作の前にもやはり、“前兆”があるのだった。
 視界の一部分、何カ所かに、そこだけ水の塊が浮いているような、空間の揺らぎが見えるのだ。

 それが起こると、「あ、来るな」という恐怖に襲われ、“美と調和”どころではないのであるが、そのごく短い間にだけ開かれる世界に、高揚する気持ちがなかったとは言えない。そしてそんなときにはぼんやりと、ドストエフスキーのあの“恍惚”が頭に浮かぶのだった。

 恍惚体験で記憶を探ってみた。
 中学生の時、真夏の炎天下にテニス部の試合で日射病になって気を失いかけたとき。
 草津へ家族旅行中にインフルエンザにかかり、40度の熱により旅館の布団で気を失ったとき。
 両体験とも、「あれは恍惚だった」と思える。そのとき苦しみは消え、スーッと眠りに吸い込まれるようにして、意識が遠のいていった。
 思うに恍惚とは、意識がこの体を離れる瞬間に起こるのかもしれない。離れるか、離れないかの、それはきっと一瞬の間。

 

白痴 (上巻) (新潮文庫) | ドストエフスキー, 木村 浩 | 本 | Amazon.co.jp

悪霊 (上巻) (新潮文庫) | ドストエフスキー, 江川 卓 | 本 | Amazon.co.jp

少女マンガ的三島由紀夫 『音楽』

 「昔は、三島由紀夫ドストエフスキーばかり読んでいました」

 どんな本を読むの?と問われたときにそう答えると、相手からは、感心されるよりも、(本当にわかっているのかよ)という含みを持たせた「へぇ、すごいね(ニヤニヤ)」を返されることが多い。
 それは私の、おそらくあまり賢くはなさそうな容姿と言動に因るのだろうが、たしかに私はよくわからずに読んでいた。

 ではなぜ彼らの作品を好んで読んでいたかと言えば、“登場する男たちが美しいから”である。十代後半の頃の私は、「少女マンガみたい!」と思いながらそれらを読み耽っていた。
 特に私が胸をときめかせたのは、三島由紀夫の『音楽』という小説に出てくる花井青年である。
 うろ覚えで申し訳ないが、ここに最も好きなシーンを上げる。

 美しい不能の青年、花井が外の通りを歩いているのを、精神分析医の汐見は診察室の窓から見かける。
 花井は花屋の前でふと足を止め、小さな花束を一つ買い求めると、それに鼻先を寄せた。
 その姿を窓から見下ろしていた汐見は、「あいつにもあんなところがあるのだな……」と微笑ましいような気持ちでいたのであるが、次の瞬間、花井はそれを車が行き交う大通りにポイッと捨てるのだ。
 花束は車のタイヤに無残につぶされ、醜い汁を流す……。

 これほどまでに美しいシーンはない、と思った。(原文はもっと素晴らしいです)
 これほどカッコイイ男はいない。

 三島は同性愛傾向の強い人であったと言われる。
 ゆえにか、男の描写が非常に、ある種の人間のツボを押さえているというか、胸をときめかせる。
 あのころの私は彼の『葉隠入門』を読んで“衆道(男色)”について調べてみたり、思えばいくつかの三島作品を含め、あれが私にとってのBL体験だったのかなとのちに気付いた。
 そして私はそれに似たものを、ドストエフスキーの男性描写からもなぜか感じ取っていたのである。

 

 

音楽 (新潮文庫 (み-3-17)) | 三島 由紀夫 | 本 | Amazon.co.jp

「言葉の悲しみ、音楽による第七官界彷徨」

 音楽に関してはずぶの素人である。
 程度で言えば、ある曲を聴きながら「この音ってギター? ベース? キーボード?」と周囲の人間に聞いてしまうくらいだ。

 そんな有り様であるから、あまり音楽について語ったりしてはいけないと思っている。
 先の日記(『女の妄想を~』)に目を通していただいた方は気付いただろうか、そこに専門的かつ技術的な「音楽」についての言及が一切なされていないことに。
 私が何かを言えるのはせめて歌詞、“言葉”についてまでだと考えている。だからあれは本当に、妄想のお話。

 映画、小説とともに音楽は、私の日常に寄り添うものである。
 ただしその聴き方は、気に入った一曲をエンドレスリピートで一日何時間も、何日間も聴き続けるという極端に偏ったものであるため、“広く音楽全般に精通”とは程遠い。


 この日常は、「上がり下がりのエブリデイ(by宮本浩次)」である。
 気質かバイオリズムか。日々の渦中では、誰かといても一人でいても、何かがあってもなくても、時折ひどく気分が沈むことがある。
 自身の情緒の波に溺れ、もがき苦しむことがある。

 そんなときに拠り所とするのが、私の場合は音楽である。(重症になるとそれすら聴けなくなるが)
 映画や小説も、その世界に入り込むことで感情もろともワープさせる作用を与える。しかしそれにはまず、物語を捉えるための“頭”を働かせなければならない。
 憂鬱の冷たい水に浸された身においては幾分困難で、多分に面倒な作業となる。
 考えずに感じられる。“思考”を介在させない感覚の切り替えが、その場合には助かるのである。(音楽を作っている友人が真逆のことを言っていたのに面白みを感じる)


 ほんの小さい頃のことで、今ではもう誰の、どんな曲であったかも忘れてしまった。ともかく何かの音楽を聴いて、そのとき私はまさしく文字通り、全身に鳥肌を立てた。
 純粋にビックリしたのだ。「見て見て、すごい!」と周囲の人間たちに鼻息荒く見せて回った覚えがある。
 思えばあれが、私の“音楽”に対する原体験であったように思う。
 あの衝撃が、私の中に在り続ける。
 音楽がもたらす感動には、作った“人間”さえ置き去りにするような、人知を超えた力が作用しているのではないか。それは不思議で、神秘的な“何か”である。
 かなり大きくなるまでそう信じていた。
 やがて、そこにはコードがあり、ルールがあり、理論があることを知る。それらに基づく綿密な考察の上、緻密に構築されるもの。作る人間の“感性”だけではない、確固たる“頭”の介入がある。
 その事実を知ってもなお、“何かの力”の存在を捨てきれない。

 楽器が弾けたらいいのに、と思う。実際、ギター、ベース、キーボード、ドラムと齧ってはみた。しかしどれも呆れるほどに続かなかったのである。つまりはそういうことだろう。その時点で、向いていなかったのである。
 音楽を作れたらいいのに、と思う。それにはまずその成り立ちと仕組みを学ぶ必要性を感じる。コードや音楽理論は、曲の楽しみ方の幅も広げるだろう。この身には知識欲もある。
 しかし私は、「なんかかっこいい」「なんか好き」のままにしておきたい、と考える。


 映画学校に通っていた時分、週に一度映画鑑賞の授業があった。
 『サイコ』や『時計じかけのオレンジ』から、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』まで、名作と呼ばれる作品を一本鑑賞させられ、800字以上のレポートにまとめて提出しなければならない。
 私はこれが嫌だった。
 「なんかわからないけどかっこいい」では認められないのである。
 なぜこの作品が評価されているのか。どの部分が他作品と違って革新的であるか。あるシーンの、そこにある狙いは何か、それが観る者に及ぼす影響とはどんなものか。
 “言語化”して“説明”することを求められた。
 そのためには、カメラワーク、構図、ストーリー展開、監督の意図にまで意識を巡らし、注視しなければならない。
 当たり前だ。なぜならそこは、映画を作る術を教えるための学校だったからである。
 自分で作品を作ろうとするとき、他の優れた作品を製作者の立場で解体、分析、研究することは大いに役に立つ。
 生徒である我々は、ただ“なんとなく”で観てはならなかったのである。


 ――言葉で表せない感覚。


 私はこれを信奉する。
 たとえば私は、ディズニーのあのエレクトリカルパレードを聴くとなぜか毎回涙が出てきてしまうのだが、その胸に湧きおこる感覚を説明できない。
 感覚や感情という、体の表面を滲み出して無限に広がるもの。
 我々はそれを、言葉という“枠組み”に“当てはめる”。数限りないように思われる言語は、しかし確実に有限である。我々は普段その中から、状態に最も近しいものを選び取っているに過ぎない。
 感動は、そんな言葉にした時点で、チープになりはしないか。
 「ここがこうで、こうだからいい」そう理路整然と説明できてしまう感情、説明してしまうことに、寂しさを覚える。
 たとえば誰かを熱烈に好きになって、「あの人のどこが好きなの?」と問われても、「さあどこだろう?」と答えられない。私にとってはそれが“恋”である。
 “言葉”の限界。
 そこに、言語を越えた“感覚”の偉大さとともに、悲しみを見る。
 他人との関係において欠かすことの出来ないコミュニケーション、その術として人は言葉を頼る。人は人と、感覚を“本当に”共有することはできない。


 私は普段、お粗末でどうしようもない、「小説」と呼ぶことすら憚られる「小説もどき」を書き綴ったりしているが、言葉にならないものを言葉で表現しようとしているのだから、そこにはそもそもの初めから破綻がある。どんな型を“選ぶ”か、という面白さはあれど、自己撞着を抱え続けている。
 だからこそ、音楽に対する憧憬は強まるのである。感覚に、ダイレクトに響き訴えるものであるゆえに。
 音楽がもたらす心の震え。それは、魂の呼応なのである。感覚とは魂の揺らぎであり、心が揺さぶられることは、魂が震えているのである。
 そこに伴う感動、身を切られるほどの痛みでさえもその瞬間我々を生かしている。


 理論や理屈に相対すると、感覚や感情はバカにされがちである。
 しかし私は明らかにしたくない。説明を与えたくない。頑固に偏屈に、掘り下げることを拒み続ける。
 わからないままでいたい。
 信じるのは、“私”という意識を越えた“感覚”である。
 尾崎翠の小説で作中人物が提示するところの、第六感をも越えた第七官界で、いつまでも彷徨していたい。


 たとえ心が死んだようになっても、音楽に感動できるうちは、それに涙を流せるうちは大丈夫だと、私は思っている。
 音楽の前では、その意思に関係なく我が身に立った鳥肌に驚いた、あの頃のまま。子供のままで無邪気に反応していたい。
 信じているから、魔法をかけ続けてほしい。

「女の妄想を加速させる、宮本浩次という男」

 放っておけない。それは、恋の始まりである。

 

 エレファントカシマシのヴォーカル・宮本浩次を指して、“男も惚れる男!”と、ある番組で紹介されているのを観た。

 男も女も惚れさせる男。果たして彼の、何がここまで人を魅了するのか。人々の心を惹きつけてやまないものとは一体なんなのか。

 

 まず取っ掛かりとしての、その際立つキャラクターは言わずもがなである。

 エレファントカシマシのリハーサルは非常に過酷で厳しいものだ。凍りつくような緊張感の中で、宮本はメンバーを罵倒する。それは、彼の“音”に対するこだわり故である。

 そんなシリアスな場面で、宮本は真剣に怒りを込めて「この、スットコドッコイ!」とメンバーに言い放つ。

 そういうところである。

 

 たとえば故・忌野清志郎甲本ヒロトなど、ギラギラと尖って世間に噛みついていた、かつての悪童(のように見える人)たちが歌う無骨で実直な言葉が、こんなにも優しく胸に響くのはなぜか。

 デビュー当時のエレファントカシマシのライブ映像で目にするのは、研いだばかりのナイフの切っ先を観客に突き付けるような、宮本の攻撃性。

 それがいつの頃からか、不器用な優しさや愛も歌うようになり、おそらくその変遷なのではないだろうか。“説得力”や“真実味”とは。

 突っ張っていた時期を経ての、過程を感じられる言葉だからである。

 

 ceroやTurntable Filmsのようなスタイリッシュでお洒落なシティポップは、波間に揺蕩うように聴いていて心地いい。

 それらは文学でいうなら村上春樹的、翻訳小説的な、対象との距離感がある。

 対してエレファントカシマシの曲というのは、宮本本人も好きだと公言する、森鴎外夏目漱石など明治の文豪的、内省的で自己と密着したものである。

 この場合、そもそも聴き手の求めるもの、聴き方が違うのだから、どちらがいいかという話などではない。

 ただ、ドスンと胸を打ち、心を揺さぶり、涙を流させるのが、無様に地面を這いつくばるような泥臭い歌であることは多い。

 

 宮本浩次はハラハラさせる。

 たとえばアジアンカンフージェネレーション後藤正文くるり岸田繁

 彼らもまたバンドの舵を握るフロントマンであり、視聴者にそのバンドを、彼ら“ありき”と思わせてしまう存在感を放つ。

 後藤にしても岸田にしても、確固とした自己の信念のもと、しっかりと自分の足で立っている。その内部では、産みの苦しみによる懊悩が渦巻こうとも、些細なことでは揺らがない我の強さがある。

 彼らは、純粋に彼らの音楽を支持する者の存在を喜ぶだろう。しかしそこに聴き手の余計な心配は必要としない。むしろそれを嫌悪して、邪険に振り払われそうな自負を感じさせる。

 宮本も同様に、我の強さにおいては二人に引けを取らない。たしかな自信と頑としたこだわりを持って、世に曲を送り出す。

 ただその自信の底に、小指の爪ほどささやかな、「なぁどうだろう?」と聴衆に尋ねる揺らぎを感じてしまうことがある。

 くるりというバンドは、出すアルバムによってガラリとその様相を変える稀有な存在である。そこには、バンドの中心人物である岸田がそのときやりたいものをやっている、という強い意思が見える。

 対してエレファントカシマシの曲の変遷には、(その真実味と矛盾して、)ほんのかすかな「これでいいのか、受け入れられるか」という宮本の迷いを想像させる。

 「みんなに認められたい」という、宮本の切実な思いと苦悩を想像させる。

 

 放っておけないのだ。心配で。

 (たとえポーズであるとしても)飄々と、心ない聴衆の野次など意に介さないように見える後藤、岸田に比べ、宮本が漏らす人間臭さは、そういう気持ちをある種の人間に起こさせる。

 それが女であれば、その母性と思いあがりを刺激される。

 

 是枝裕和監督のドキュメンタリー〖扉の向こう〗で宮本は、自分でパスタを茹で、レトルトのソースをかけて啜る侘しい姿を晒した。ファンの中には、その情けない姿にショックを受け、「そんなところ見せないでくれ」と自分勝手に涙を流す者もいただろう。

 

 しかしそこにある、“守ってあげたい”と思わせる弱さ。

 “弱さ”といえば、それはフジファブリックの故・志村正彦を思い起こさせるが、彼はあまりにも、暗く深い場所に佇んでいた。真面目で深刻で、人を強く求めながら同時に拒絶してしまうようなジレンマを、見る者に感じさせた。

 怖くてその身に触れられないのだ。触れたら、彼もこちらも傷を負って互いに血を流す様な、逼迫したものを抱えているように思わせた。

 志村は、〈怖いのは否定される事 僕の心は臆病だな〉と歌う。

 

 かつてはラジオの生放送中にブチ切れたり、スチール撮影中カメラマンに殴りかかったりしたこともある宮本だが、現在メディアでインタビュアーに対する態度は終始にこやかである。基本的に敬語を崩さず、腰も低い。そこには、液晶画面の向こうにいる視聴者への意識がある。

 誰しも内と外の顔は使い分けているものである。しかし、若き日の宮本、その本性(?)を知ったつもりでいる者、リハーサル時の鬼のような剣幕を知る者たちは、「宮本は相当気を使っているのではないか。無理をしているのではないか」と心配になり、やきもきと気を揉む。

 

 宮本浩次のただ佇む姿に、その背中に、生きることの本質的な悲しみを感じることがある。

 近年の宮本は、愛を歌い、人の温かさを歌い、希望と夢を歌う。

 それは彼自身のまぎれもない“実感”である。かつての闘犬の時期を経て掴んだ、“真実味”である。だからこそ人々は心を震わせ、励まされる。

 そう思いながら同時に、それが前向きであればあるほど、「本当か? 無理をしてはいないか?」という思いが捨てきれない。

 足掻いていて欲しい。

 そこには、彼の醸し出す悲しみに呼応し、自分自身を投影する人間の危うげに倒錯した願望がある。

 それゆえ想像してしまうのだ。その歌に含まれるのは彼の果てない“憧れ”なのではないかと。

 

 ある対談で宮本は「僕はもう夢の中でいつも生きている感じがしてて…」と語っており、妙に納得した。

 服を着て、食べ、眠り、風呂に入って公共料金を支払う。日々はそれだけで尊いものである。そこから生まれるものもある。

 しかしある種の芸術に携わる人間にとって“生活”とは、休息所や逃げ場にもなり得るが、感性を殺される場所にもなりかねない。時に芸術家は“生活”を置いてきぼりにするものである。

 

 「“正装してレストランで食事する”時間があるときには、たぶんやっぱり“曲を作る”」と言う宮本。

 「苦しまなければ。まだ足りない。もっと、もっとだ」そうノートに書き殴る宮本の姿は、命を削って、音楽に身を捧げる者として見る者の目に映る。

 果たして幻想かもしれない。エンターテイナーとして演出している部分とその実生活。事実は一視聴者には到底知りえぬが、そこには、“侍”としての彼、人々の思う“ロックスター”の姿がある。

 宮本は、「みんなに聴いてもらいたい」とてらいなく吐露する。

 いよいよ50代、人生の大先輩を掴まえて言うのも失礼千万な言葉ではあるが、まるで子供のようである。真っ直ぐで素直で純粋。

 〈全部 幻〉と呟いてみながらすぐに〈そんなこたねえか〉と言い直す歌詞には、彼の強がりと隠しきれぬ繊細さが垣間見える。だからこそ彼は迷い、揺らぐのではないだろうか。

 

 『エレファントカシマシ』というバンドについて考えた時に、宮本以外のメンバーを思わずにはいられない。

 圧倒的な存在感で、“バンドの顔”として世間に認知される宮本浩次の影に隠れ、霞んでしまいがちなメンバー、石森敏行高緑成治、富永義之。実は彼らこそが『エレファントカシマシ』を支える、バンドにとってなくてはならぬファクターなのだ。

 練習では宮本に口汚く罵られ、しかしそこでブチ切れることもふて腐れることもなく、ただ黙って宮本のために楽器を弾き続ける彼ら。

 「ミヤジは凄いんです」「自分のエゴなんかいらない」「ミヤジが満足するように練習するだけ」と、50代を迎える大人の男たちが口を揃えて言う。

 それはかつての同級生に寄せる、“崇拝”にも似た信頼である。

 宮本自身も彼らのありがたみはよくわかっているようで、最近のインタビューでは毎回のようにメンバーに対して感謝の意を口にしている。

 他の誰かでは、宮本は手に負えない。石森、高緑、富永でなければ、『エレファントカシマシ』は成り立たないのである。

 

 最後になるが、生きていると時折どうしようもなく、他人を羨んだりこんな我が身を憎んだり、ただ息をしているだけの虚しさに打ちひしがれたりする。そんなとき、頭に響く歌声がある。

 〈本当はこのままで 何もかも素晴らしいのに〉

 

 宮本の病気療養によるライブ活動休止を経て、復活した『エレファントカシマシ』。

 このところしきりに「もう若くない」とこぼす宮本浩次には相変わらずヒヤヒヤさせられるが、ライブで「エブリバデ―!」と呼びかけられれば我々はいつだって嬉しい。だから、大丈夫だ。

 

 

 ※歌詞引用

フジファブリックバウムクーヘン

エレファントカシマシ「武蔵野」

エレファントカシマシ「風に吹かれて」