おそろしい客観(絲山秋子『薄情』)

 「あまりものを言わずに暮らしていると客観性を失う。自分の都合で考える癖がつく。思うことと口に出して言ったらおかしいことの区別が曖昧になってくる。客観性が乏しくても嘘を言うことができないから余計に自己矛盾が増すのだ。自分の内面の身勝手さがじわじわと外にしみ出していることに、……。」

 絲山秋子さんの小説『薄情』の内の一節である。
 これを読んだ瞬間、私は横っ面を思いきり張り飛ばされたような衝撃を受け、思わず本を閉じた。
 折しも私はその数日前に、元恋人へ向けて、まさに“主観”のみで書かれた別れの手紙をポストに投函したばかりだったからである。

 主観とは、
その人ひとりのものの見方。
 客観とは、
当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考えること。また、その考え。
客観性とは、だれもがそうだと納得できる、そのものの性質。

 とある。(出典:デジタル大辞泉

 “恋”は主観でするものだ。
 一心不乱の恋とは、時に人を狂わせる。
 恋人に対する荒ぶった感情は、客観性をあえて無視してでもぶつけずにはいられない。それは抗えない“欲求”なのだった。
 恋に憑りつかれている人間は、互いの、もしくは自分の“想い”こそがすべてだと信じる。二人の間に、賢明な第三者の声など割り込ませたくないと耳を塞ぎ、結果的に自ら暗い穴の中へと落ちていくことがある。
 また、恋する相手、だからこそ許せることがあり、だからこそどうしても許せないことがある。どうかすると、それは烈火のごとき憎しみへと発展してしまう。
 感情の球体。その恋情の真裏には憎悪が存在する。相手に対して、ひたむきに執着するからこそである。
 だが世の中には、恋も仕事も趣味も遊びも、バランスよく楽しむ人々もたくさんいるそうで、私はそういう方々が本当に羨ましい。

 自らについて、客観性を持って冷静に、俯瞰で眺めることは時に必要である、というのはわかる。
 しかしそうすると私は、私の考え、こうして熱心に書き連ねていることも、なんだかすべて意味がないように思えてきてしまうのだった。
 主観で見たときの個人の一大事は、客観で見れば些末なこと。
 それに気付くと、心にぽっかり穴があく。
 ぼんやりとした虚無感に気持ちを吸い取られて、何も書けなくなってしまう。
 私の悩みや苦しみも、どうしても言いたいこと伝えたいことも、客観的に見たら何の意味もない。
 “客観”は怖い。
 なんだか全部が虚しくなって、生きること、自らの存在自体に空虚さを感じてしまう。遥か上空から見下ろされれば、私は一人、立ち尽くす。

 

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