「言葉の悲しみ、音楽による第七官界彷徨」
音楽に関してはずぶの素人である。
程度で言えば、ある曲を聴きながら「この音ってギター? ベース? キーボード?」と周囲の人間に聞いてしまうくらいだ。
そんな有り様であるから、あまり音楽について語ったりしてはいけないと思っている。
先の日記(『女の妄想を~』)に目を通していただいた方は気付いただろうか、そこに専門的かつ技術的な「音楽」についての言及が一切なされていないことに。
私が何かを言えるのはせめて歌詞、“言葉”についてまでだと考えている。だからあれは本当に、妄想のお話。
映画、小説とともに音楽は、私の日常に寄り添うものである。
ただしその聴き方は、気に入った一曲をエンドレスリピートで一日何時間も、何日間も聴き続けるという極端に偏ったものであるため、“広く音楽全般に精通”とは程遠い。
この日常は、「上がり下がりのエブリデイ(by宮本浩次)」である。
気質かバイオリズムか。日々の渦中では、誰かといても一人でいても、何かがあってもなくても、時折ひどく気分が沈むことがある。
自身の情緒の波に溺れ、もがき苦しむことがある。
そんなときに拠り所とするのが、私の場合は音楽である。(重症になるとそれすら聴けなくなるが)
映画や小説も、その世界に入り込むことで感情もろともワープさせる作用を与える。しかしそれにはまず、物語を捉えるための“頭”を働かせなければならない。
憂鬱の冷たい水に浸された身においては幾分困難で、多分に面倒な作業となる。
考えずに感じられる。“思考”を介在させない感覚の切り替えが、その場合には助かるのである。(音楽を作っている友人が真逆のことを言っていたのに面白みを感じる)
ほんの小さい頃のことで、今ではもう誰の、どんな曲であったかも忘れてしまった。ともかく何かの音楽を聴いて、そのとき私はまさしく文字通り、全身に鳥肌を立てた。
純粋にビックリしたのだ。「見て見て、すごい!」と周囲の人間たちに鼻息荒く見せて回った覚えがある。
思えばあれが、私の“音楽”に対する原体験であったように思う。
あの衝撃が、私の中に在り続ける。
音楽がもたらす感動には、作った“人間”さえ置き去りにするような、人知を超えた力が作用しているのではないか。それは不思議で、神秘的な“何か”である。
かなり大きくなるまでそう信じていた。
やがて、そこにはコードがあり、ルールがあり、理論があることを知る。それらに基づく綿密な考察の上、緻密に構築されるもの。作る人間の“感性”だけではない、確固たる“頭”の介入がある。
その事実を知ってもなお、“何かの力”の存在を捨てきれない。
楽器が弾けたらいいのに、と思う。実際、ギター、ベース、キーボード、ドラムと齧ってはみた。しかしどれも呆れるほどに続かなかったのである。つまりはそういうことだろう。その時点で、向いていなかったのである。
音楽を作れたらいいのに、と思う。それにはまずその成り立ちと仕組みを学ぶ必要性を感じる。コードや音楽理論は、曲の楽しみ方の幅も広げるだろう。この身には知識欲もある。
しかし私は、「なんかかっこいい」「なんか好き」のままにしておきたい、と考える。
映画学校に通っていた時分、週に一度映画鑑賞の授業があった。
『サイコ』や『時計じかけのオレンジ』から、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』まで、名作と呼ばれる作品を一本鑑賞させられ、800字以上のレポートにまとめて提出しなければならない。
私はこれが嫌だった。
「なんかわからないけどかっこいい」では認められないのである。
なぜこの作品が評価されているのか。どの部分が他作品と違って革新的であるか。あるシーンの、そこにある狙いは何か、それが観る者に及ぼす影響とはどんなものか。
“言語化”して“説明”することを求められた。
そのためには、カメラワーク、構図、ストーリー展開、監督の意図にまで意識を巡らし、注視しなければならない。
当たり前だ。なぜならそこは、映画を作る術を教えるための学校だったからである。
自分で作品を作ろうとするとき、他の優れた作品を製作者の立場で解体、分析、研究することは大いに役に立つ。
生徒である我々は、ただ“なんとなく”で観てはならなかったのである。
――言葉で表せない感覚。
私はこれを信奉する。
たとえば私は、ディズニーのあのエレクトリカルパレードを聴くとなぜか毎回涙が出てきてしまうのだが、その胸に湧きおこる感覚を説明できない。
感覚や感情という、体の表面を滲み出して無限に広がるもの。
我々はそれを、言葉という“枠組み”に“当てはめる”。数限りないように思われる言語は、しかし確実に有限である。我々は普段その中から、状態に最も近しいものを選び取っているに過ぎない。
感動は、そんな言葉にした時点で、チープになりはしないか。
「ここがこうで、こうだからいい」そう理路整然と説明できてしまう感情、説明してしまうことに、寂しさを覚える。
たとえば誰かを熱烈に好きになって、「あの人のどこが好きなの?」と問われても、「さあどこだろう?」と答えられない。私にとってはそれが“恋”である。
“言葉”の限界。
そこに、言語を越えた“感覚”の偉大さとともに、悲しみを見る。
他人との関係において欠かすことの出来ないコミュニケーション、その術として人は言葉を頼る。人は人と、感覚を“本当に”共有することはできない。
私は普段、お粗末でどうしようもない、「小説」と呼ぶことすら憚られる「小説もどき」を書き綴ったりしているが、言葉にならないものを言葉で表現しようとしているのだから、そこにはそもそもの初めから破綻がある。どんな型を“選ぶ”か、という面白さはあれど、自己撞着を抱え続けている。
だからこそ、音楽に対する憧憬は強まるのである。感覚に、ダイレクトに響き訴えるものであるゆえに。
音楽がもたらす心の震え。それは、魂の呼応なのである。感覚とは魂の揺らぎであり、心が揺さぶられることは、魂が震えているのである。
そこに伴う感動、身を切られるほどの痛みでさえもその瞬間我々を生かしている。
理論や理屈に相対すると、感覚や感情はバカにされがちである。
しかし私は明らかにしたくない。説明を与えたくない。頑固に偏屈に、掘り下げることを拒み続ける。
わからないままでいたい。
信じるのは、“私”という意識を越えた“感覚”である。
尾崎翠の小説で作中人物が提示するところの、第六感をも越えた第七官界で、いつまでも彷徨していたい。
たとえ心が死んだようになっても、音楽に感動できるうちは、それに涙を流せるうちは大丈夫だと、私は思っている。
音楽の前では、その意思に関係なく我が身に立った鳥肌に驚いた、あの頃のまま。子供のままで無邪気に反応していたい。
信じているから、魔法をかけ続けてほしい。