恍惚の瞬間(ドストエフスキー)
ドストエフスキーの小説の中で、癲癇(てんかん)持ちである『白痴』のムイシュキン、『悪霊』のキリーロフの二人が、その発作前のほんの一瞬間、
「そのためには全生涯を投げ打ってもいいと思うほどの美と調和に満ちた瞬間」
がやってくると言っている。
これは“恍惚前兆”と呼ばれ、こういった発作のあるてんかんは“ドストエフスキーてんかん”とも呼ばれているらしいが、これはドストエフスキーの文学上の創造なのではないか?という意見もあったようだ。
私は今回調べてみるまで、それをずっとドストエフスキー自身の体験として記憶していた。かつて何かで彼の体験談として読んだ気がするのであるが、私の勘違いだったのだろうか。
その恍惚とは果たして一体どんなものなのだろうと、私は思いを馳せていた。
現在は滅多に起こらなくなったが、以前は年に四回くらい、私は過換気症候群の発作を起こした。
症状としては、呼吸の困難、手の震え、頭痛、嘔吐などが挙げられる。
その発作の前にもやはり、“前兆”があるのだった。
視界の一部分、何カ所かに、そこだけ水の塊が浮いているような、空間の揺らぎが見えるのだ。
それが起こると、「あ、来るな」という恐怖に襲われ、“美と調和”どころではないのであるが、そのごく短い間にだけ開かれる世界に、高揚する気持ちがなかったとは言えない。そしてそんなときにはぼんやりと、ドストエフスキーのあの“恍惚”が頭に浮かぶのだった。
恍惚体験で記憶を探ってみた。
中学生の時、真夏の炎天下にテニス部の試合で日射病になって気を失いかけたとき。
草津へ家族旅行中にインフルエンザにかかり、40度の熱により旅館の布団で気を失ったとき。
両体験とも、「あれは恍惚だった」と思える。そのとき苦しみは消え、スーッと眠りに吸い込まれるようにして、意識が遠のいていった。
思うに恍惚とは、意識がこの体を離れる瞬間に起こるのかもしれない。離れるか、離れないかの、それはきっと一瞬の間。