依存症(東山彰良『ありきたりの痛み』)
「小説を書かなくてはならないのは、けっして幸せな精神状態ではない。アルコール依存症が幸せな状態じゃないのとおなじ意味で。」
東山彰良氏が『路傍』で大藪春彦賞を受賞したときの記念エッセイ『ありきたりの痛み』の中の一文である。
恋人と別れて、もうにっちもさっちもどうにもならなくなったときに、私は小説(のようなもの)を書き始めた。
そのときの私は、書かないと生きていかれない、と思った。しかし、あまりの不味さに我ながら反吐が出たし、当然だが人様からはほとんど認められない。苦しかった。
「本当はやめたいんだよ、こんなこと」と、元恋人に訴えると
「小説なんて書かなくたって、生きていけると思うけど」
あっけらかんと、彼はそう言うのだった。「そもそもの、原因!!」と、私の心中で火山はボンボン噴火していたが、さすがに口には出せなかった。
エッセイの中で、東山氏は続ける。
「小説を書いているその瞬間は間違いなく幸せで、小説を書きつづけられるのはこの上なく幸せなことだ。」
私とは決定的に違う。没頭して時を忘れる瞬間はあるが、“幸せ”という心地とは遠い。
人それぞれなのだろうが、そこは、プロの作家と私とを大きく隔てる部分でもあるのかもしれないと、しみじみ感じてしまった。
「もしそのチャンスを奪われたら、」「いつまでも解消されないちっぽけな痛みが積もりに積もって、本当に弱ってしまう。」ことには、おこがましくも共感する。
また、私が恋でどんなにとち狂ってみても、その界隈(恋愛ガチ勢メンヘラ畑)の人間たちにとっては“あるある”なのだった。
突出できない。
そこですら埋もれてしまう。
この苦しみ悲しみ。他人にもわかってもらいたいという気持ちと、他人なんぞにわかるものかという気持ちの狭間でせめぎ合って、時折、わかるものか、いやむしろわかってほしくない、わかったつもりになってくれるな、と思う。
それは、私だけのものである。
自分の苦しみを自分たる所以だと思って大事にしてしまうが、似たような者は多くいると知って、では、自分と他者とを分かつ証明はどこにあるのだろう。
“特別”はどこにある。
私を私たらしめているものは。自分だけの感じ方、自分だけの表現の仕方。自分だけの狂い方。
“あるある”の塀の中で、私は私に失望する。
東山氏の、彼の感じる痛みとは、「ぜんぜん知らない人から舌打ちをされるとか、野良犬からさえそっぽをむかれるとか、飲みかけのビールをさげられるとか、」で、
「そんなコメディのような状況のなかから時折顔をのぞかせる狂気」を、「チャールズ・ブコウスキーに倣えば「ありきたりの狂気」」と言う。
では、私のこれらは果たして、“ありきたりでない”狂気と言えるだろうか。
こんなすべてがひっくり返るような、自分にとっての一大事でさえもひょっとしたら、“ありきたり”の中に含まれてしまうのかもしれない。そう考えると苦い笑いがこみ上げる。
狂ってもありきたり。なんだか妙なところで落ち込ませられる。