かつて少女だった、すべての女たち(『ヴァージン・スーサイズ』)
『ゴッドファーザー』の監督フランシス・フォード・コッポラの娘、ソフィア・コッポラの初監督作品『ヴァージン・スーサイズ』。
オシャレである。音楽もファッションも、雰囲気も。
その底流を、一貫して“陰”が流れ続けている。
印象的なセリフがある。
映画冒頭で、末娘13歳のセシリアが自殺未遂をはかる。手首に包帯を巻かれ、ベッドに座るセシリアに医師は嘆く。
「人生の辛さもまだ知らない年なのに」
それに対し、彼女は答えるのだ。
「先生は13歳の女の子になったことないじゃない」
十代の頃、私にも、最も死に近付いた時期というものがある。
その期間は、一日中部屋に引きこもり、家族とさえほとんど口を利かず、すべてが苦しく、毎日“死”について考えた。
それほどまでにあの頃の私を絶望させていたリアルな感情を、この身で“感じる”ことは、もう決してできない。
かつて13歳の女の子だった者も、13歳の女の子の気持ちを忘れてしまう。
今生きている大人の女たちは皆、あの、少女の時代を生き延びただけですごいのだ、というような言葉を目にしたことがある。(この作品の中だったか?)
“思春期”という最もはかなく危うい時代を、生き抜けたというだけで。
果たしてそうだろうか、と私は思う。
我々は、“生き延びてしまった”のではないか。
今、そこに伴うはずの痛みに怖気づき日和る心が生まれ、「死ぬしかない」と思い詰めるまでのひたむきさを失った。
鈍感になり、「死ぬほどではない」と日々をやり過ごす。自分の周囲を覆う殻というよりも、自分自身の皮膚がどんどん分厚くなっていくようなその感覚は私に、時に醜いと感じさせる。
それは、喪失である。あの頃の、自分や世界に対する切羽詰まった純粋な潔癖、まさに純潔を失ってしまったのだ、と思う。
むき出しの、生身の魂はほとんどすべてから傷を受けた。自分で傷をつけて、世界から傷つけられて、鈍くならなければならない、今のままこの鋭さのままでは生きられないと知っている。
今が自分の中で一番美しい時期だということも知っている。やがて老いがやって来て、後はどんどん劣化していくだけだということに、絶望する。それが若さだった。
若さとは、無謀であり無知であり、視野狭窄。短絡的であり、絶対的な“歓び”の経験も少ない彼らは、その後の人生をも比較的簡単に捨ててしまおうとする。
あの頃の私にとって、未来はおそろしいだけだった。
“死”に対する恐怖より、それよりも、ただ生きていることがつらかった。
あの時期以上のつらさはまだない。今の私は、あの時期によって生かされている、とも言える。
死にきれなかったかつての少女は、時折ぼんやり途方に暮れる。