「女の妄想を加速させる、宮本浩次という男」

 放っておけない。それは、恋の始まりである。

 

 エレファントカシマシのヴォーカル・宮本浩次を指して、“男も惚れる男!”と、ある番組で紹介されているのを観た。

 男も女も惚れさせる男。果たして彼の、何がここまで人を魅了するのか。人々の心を惹きつけてやまないものとは一体なんなのか。

 

 まず取っ掛かりとしての、その際立つキャラクターは言わずもがなである。

 エレファントカシマシのリハーサルは非常に過酷で厳しいものだ。凍りつくような緊張感の中で、宮本はメンバーを罵倒する。それは、彼の“音”に対するこだわり故である。

 そんなシリアスな場面で、宮本は真剣に怒りを込めて「この、スットコドッコイ!」とメンバーに言い放つ。

 そういうところである。

 

 たとえば故・忌野清志郎甲本ヒロトなど、ギラギラと尖って世間に噛みついていた、かつての悪童(のように見える人)たちが歌う無骨で実直な言葉が、こんなにも優しく胸に響くのはなぜか。

 デビュー当時のエレファントカシマシのライブ映像で目にするのは、研いだばかりのナイフの切っ先を観客に突き付けるような、宮本の攻撃性。

 それがいつの頃からか、不器用な優しさや愛も歌うようになり、おそらくその変遷なのではないだろうか。“説得力”や“真実味”とは。

 突っ張っていた時期を経ての、過程を感じられる言葉だからである。

 

 ceroやTurntable Filmsのようなスタイリッシュでお洒落なシティポップは、波間に揺蕩うように聴いていて心地いい。

 それらは文学でいうなら村上春樹的、翻訳小説的な、対象との距離感がある。

 対してエレファントカシマシの曲というのは、宮本本人も好きだと公言する、森鴎外夏目漱石など明治の文豪的、内省的で自己と密着したものである。

 この場合、そもそも聴き手の求めるもの、聴き方が違うのだから、どちらがいいかという話などではない。

 ただ、ドスンと胸を打ち、心を揺さぶり、涙を流させるのが、無様に地面を這いつくばるような泥臭い歌であることは多い。

 

 宮本浩次はハラハラさせる。

 たとえばアジアンカンフージェネレーション後藤正文くるり岸田繁

 彼らもまたバンドの舵を握るフロントマンであり、視聴者にそのバンドを、彼ら“ありき”と思わせてしまう存在感を放つ。

 後藤にしても岸田にしても、確固とした自己の信念のもと、しっかりと自分の足で立っている。その内部では、産みの苦しみによる懊悩が渦巻こうとも、些細なことでは揺らがない我の強さがある。

 彼らは、純粋に彼らの音楽を支持する者の存在を喜ぶだろう。しかしそこに聴き手の余計な心配は必要としない。むしろそれを嫌悪して、邪険に振り払われそうな自負を感じさせる。

 宮本も同様に、我の強さにおいては二人に引けを取らない。たしかな自信と頑としたこだわりを持って、世に曲を送り出す。

 ただその自信の底に、小指の爪ほどささやかな、「なぁどうだろう?」と聴衆に尋ねる揺らぎを感じてしまうことがある。

 くるりというバンドは、出すアルバムによってガラリとその様相を変える稀有な存在である。そこには、バンドの中心人物である岸田がそのときやりたいものをやっている、という強い意思が見える。

 対してエレファントカシマシの曲の変遷には、(その真実味と矛盾して、)ほんのかすかな「これでいいのか、受け入れられるか」という宮本の迷いを想像させる。

 「みんなに認められたい」という、宮本の切実な思いと苦悩を想像させる。

 

 放っておけないのだ。心配で。

 (たとえポーズであるとしても)飄々と、心ない聴衆の野次など意に介さないように見える後藤、岸田に比べ、宮本が漏らす人間臭さは、そういう気持ちをある種の人間に起こさせる。

 それが女であれば、その母性と思いあがりを刺激される。

 

 是枝裕和監督のドキュメンタリー〖扉の向こう〗で宮本は、自分でパスタを茹で、レトルトのソースをかけて啜る侘しい姿を晒した。ファンの中には、その情けない姿にショックを受け、「そんなところ見せないでくれ」と自分勝手に涙を流す者もいただろう。

 

 しかしそこにある、“守ってあげたい”と思わせる弱さ。

 “弱さ”といえば、それはフジファブリックの故・志村正彦を思い起こさせるが、彼はあまりにも、暗く深い場所に佇んでいた。真面目で深刻で、人を強く求めながら同時に拒絶してしまうようなジレンマを、見る者に感じさせた。

 怖くてその身に触れられないのだ。触れたら、彼もこちらも傷を負って互いに血を流す様な、逼迫したものを抱えているように思わせた。

 志村は、〈怖いのは否定される事 僕の心は臆病だな〉と歌う。

 

 かつてはラジオの生放送中にブチ切れたり、スチール撮影中カメラマンに殴りかかったりしたこともある宮本だが、現在メディアでインタビュアーに対する態度は終始にこやかである。基本的に敬語を崩さず、腰も低い。そこには、液晶画面の向こうにいる視聴者への意識がある。

 誰しも内と外の顔は使い分けているものである。しかし、若き日の宮本、その本性(?)を知ったつもりでいる者、リハーサル時の鬼のような剣幕を知る者たちは、「宮本は相当気を使っているのではないか。無理をしているのではないか」と心配になり、やきもきと気を揉む。

 

 宮本浩次のただ佇む姿に、その背中に、生きることの本質的な悲しみを感じることがある。

 近年の宮本は、愛を歌い、人の温かさを歌い、希望と夢を歌う。

 それは彼自身のまぎれもない“実感”である。かつての闘犬の時期を経て掴んだ、“真実味”である。だからこそ人々は心を震わせ、励まされる。

 そう思いながら同時に、それが前向きであればあるほど、「本当か? 無理をしてはいないか?」という思いが捨てきれない。

 足掻いていて欲しい。

 そこには、彼の醸し出す悲しみに呼応し、自分自身を投影する人間の危うげに倒錯した願望がある。

 それゆえ想像してしまうのだ。その歌に含まれるのは彼の果てない“憧れ”なのではないかと。

 

 ある対談で宮本は「僕はもう夢の中でいつも生きている感じがしてて…」と語っており、妙に納得した。

 服を着て、食べ、眠り、風呂に入って公共料金を支払う。日々はそれだけで尊いものである。そこから生まれるものもある。

 しかしある種の芸術に携わる人間にとって“生活”とは、休息所や逃げ場にもなり得るが、感性を殺される場所にもなりかねない。時に芸術家は“生活”を置いてきぼりにするものである。

 

 「“正装してレストランで食事する”時間があるときには、たぶんやっぱり“曲を作る”」と言う宮本。

 「苦しまなければ。まだ足りない。もっと、もっとだ」そうノートに書き殴る宮本の姿は、命を削って、音楽に身を捧げる者として見る者の目に映る。

 果たして幻想かもしれない。エンターテイナーとして演出している部分とその実生活。事実は一視聴者には到底知りえぬが、そこには、“侍”としての彼、人々の思う“ロックスター”の姿がある。

 宮本は、「みんなに聴いてもらいたい」とてらいなく吐露する。

 いよいよ50代、人生の大先輩を掴まえて言うのも失礼千万な言葉ではあるが、まるで子供のようである。真っ直ぐで素直で純粋。

 〈全部 幻〉と呟いてみながらすぐに〈そんなこたねえか〉と言い直す歌詞には、彼の強がりと隠しきれぬ繊細さが垣間見える。だからこそ彼は迷い、揺らぐのではないだろうか。

 

 『エレファントカシマシ』というバンドについて考えた時に、宮本以外のメンバーを思わずにはいられない。

 圧倒的な存在感で、“バンドの顔”として世間に認知される宮本浩次の影に隠れ、霞んでしまいがちなメンバー、石森敏行高緑成治、富永義之。実は彼らこそが『エレファントカシマシ』を支える、バンドにとってなくてはならぬファクターなのだ。

 練習では宮本に口汚く罵られ、しかしそこでブチ切れることもふて腐れることもなく、ただ黙って宮本のために楽器を弾き続ける彼ら。

 「ミヤジは凄いんです」「自分のエゴなんかいらない」「ミヤジが満足するように練習するだけ」と、50代を迎える大人の男たちが口を揃えて言う。

 それはかつての同級生に寄せる、“崇拝”にも似た信頼である。

 宮本自身も彼らのありがたみはよくわかっているようで、最近のインタビューでは毎回のようにメンバーに対して感謝の意を口にしている。

 他の誰かでは、宮本は手に負えない。石森、高緑、富永でなければ、『エレファントカシマシ』は成り立たないのである。

 

 最後になるが、生きていると時折どうしようもなく、他人を羨んだりこんな我が身を憎んだり、ただ息をしているだけの虚しさに打ちひしがれたりする。そんなとき、頭に響く歌声がある。

 〈本当はこのままで 何もかも素晴らしいのに〉

 

 宮本の病気療養によるライブ活動休止を経て、復活した『エレファントカシマシ』。

 このところしきりに「もう若くない」とこぼす宮本浩次には相変わらずヒヤヒヤさせられるが、ライブで「エブリバデ―!」と呼びかけられれば我々はいつだって嬉しい。だから、大丈夫だ。

 

 

 ※歌詞引用

フジファブリックバウムクーヘン

エレファントカシマシ「武蔵野」

エレファントカシマシ「風に吹かれて」