植本一子『かなわない』
 オードリー若林正恭『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』
 岸見一郎・古賀史健『幸せになる勇気』

 最近なんとなく手に取って読んだこの3冊が、立て続けに、今の私にとてもしっくりと響くものでした。(『幸せに~』を購入したときは、いよいよ私も自己啓発本を……と若干自分に引いていましたが)

 私の抱える問題、その原因の核はやはり「自己肯定感の低さ」にあるようです。そしておそらくそれと地続きの、過剰な自意識。
 今までぼんやりとは気付いていながらも、目下の状況にあっぷあっぷと溺れるだけで、真剣になんとかしようとは考えていませんでした。

 私は時々、ツイッターを見ることがつらかったです。
 もちろん楽しんでやっていたけれど、私以外の楽しそうな人、幸せそうな人たちの様子が流れてくると、時折黒い嫉妬が心中に湧き起こることがありました。そんな自分への自己嫌悪と、ともに混ざり合って渦を巻き、息苦しさを覚えました。
 誰かが皆に認められている様を見れば、羨ましくて、落ち込んで、悔しくなりました。
 劣等感の塊で自分に絶対の自信を持てない私は、相対を求めて人と比べてばかりいます。

 それでも見ずにはいられなかった。
 広い世界から逃げちゃいけないと考えたからです。
 見たくないものに蓋をして、自分にとって都合のいい、居心地のいい場所でぬくぬくとしているのはいけないことだ、と思っていました。
 また私には時に、苦行にあえて頭から突っ込んでいくようなところがあって、まるで自傷行為とも取れるそれは、私の“苦しみ信仰”とでも呼ぶものからです。
 “人は苦しんでこそ”という強迫観念めいた刷り込みは、常にぼんやりと自分を覆っている現在のつらさを納得させるもの。
 ひいては過去、引きこもっていたあの5年間も、意味のあるものだった。決して無駄じゃなかったんだと、自分の中で肯定したかったからです。
 同時に、十代の半分を費やした、あの閉じた長い時間は、“経験コンプレックス”として私に根付きました。
 見たくなくても、苦しさを伴っても、大海から目を逸らさないこと。それもまた、私に刷り込まれたのです。

 けれど、ここにある日常で生きていくこと。
 その中においてすら、心は時として激しく波打つだろうけれど、無理をせず、日々を少しは穏やかに暮らしていけるのなら、それでいいんじゃないかと思いました。
 それは実際の、この手で感じ触れられる、半径5メートルの世界です。

 「平凡なる自分を、
 “その他大勢”としての自分を受け入れること」

 私は、自分に対して上げすぎたハードルによって、ずっと自らの首を絞め続けていたような気がします。
 そばにある世間を、自分だけの世界にはしないようにしながら、まずは私が私を承認できたら。
 私はこの世に存在していいと、まずは私が認めてあげられたら。
 そこから始めるべきなのではないか。
 それを経て世界を広げてはいけないものだろうか、と思います。

 気分も考えも、私はコロコロ変わってしまう。寝て起きて、明日の朝にはもうすっかり変わっているかもしれません。
 特に珍しくこんな前向き(?)で殊勝(?)なことを考えた後には、決まって激しい揺り戻しがやってきます。暗い情緒の大波に、すでに今からビビっています。

 でもこの3冊は、私が必要として、しかるべきタイミングで出会えたものたちであったように感じました。
 『かなわない』の中で植本さんは
 「そう思えるものに出会えたということは、その時点で、今の道は間違っていないということだとも思う。」
 とおっしゃっていて、ああどうか、そうだったらいいなぁと思います。
 夜明けは到底まだまだ先で、明けるかどうかもわからない。
 だけど真っ暗闇の中で、今はまったく見えないけれどもそこに月があることを知りました。

 私は、このどうしようもない劣等感によって切りつけて、傷つけてしまった人にずっと謝りたかった。ひどいことを言って、本当にごめんなさい。

 

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幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII | 岸見 一郎, 古賀 史健 | 本 | Amazon.co.jp

依存症(東山彰良『ありきたりの痛み』)

「小説を書かなくてはならないのは、けっして幸せな精神状態ではない。アルコール依存症が幸せな状態じゃないのとおなじ意味で。」

 東山彰良氏が『路傍』で大藪春彦賞を受賞したときの記念エッセイ『ありきたりの痛み』の中の一文である。
 恋人と別れて、もうにっちもさっちもどうにもならなくなったときに、私は小説(のようなもの)を書き始めた。
 そのときの私は、書かないと生きていかれない、と思った。しかし、あまりの不味さに我ながら反吐が出たし、当然だが人様からはほとんど認められない。苦しかった。
「本当はやめたいんだよ、こんなこと」と、元恋人に訴えると
「小説なんて書かなくたって、生きていけると思うけど」
 あっけらかんと、彼はそう言うのだった。「そもそもの、原因!!」と、私の心中で火山はボンボン噴火していたが、さすがに口には出せなかった。

 エッセイの中で、東山氏は続ける。
「小説を書いているその瞬間は間違いなく幸せで、小説を書きつづけられるのはこの上なく幸せなことだ。」
 私とは決定的に違う。没頭して時を忘れる瞬間はあるが、“幸せ”という心地とは遠い。
 人それぞれなのだろうが、そこは、プロの作家と私とを大きく隔てる部分でもあるのかもしれないと、しみじみ感じてしまった。
「もしそのチャンスを奪われたら、」「いつまでも解消されないちっぽけな痛みが積もりに積もって、本当に弱ってしまう。」ことには、おこがましくも共感する。

 また、私が恋でどんなにとち狂ってみても、その界隈(恋愛ガチ勢メンヘラ畑)の人間たちにとっては“あるある”なのだった。
 突出できない。
 そこですら埋もれてしまう。
 この苦しみ悲しみ。他人にもわかってもらいたいという気持ちと、他人なんぞにわかるものかという気持ちの狭間でせめぎ合って、時折、わかるものか、いやむしろわかってほしくない、わかったつもりになってくれるな、と思う。
 それは、私だけのものである。
 自分の苦しみを自分たる所以だと思って大事にしてしまうが、似たような者は多くいると知って、では、自分と他者とを分かつ証明はどこにあるのだろう。
 “特別”はどこにある。
 私を私たらしめているものは。自分だけの感じ方、自分だけの表現の仕方。自分だけの狂い方。
 “あるある”の塀の中で、私は私に失望する。

 東山氏の、彼の感じる痛みとは、「ぜんぜん知らない人から舌打ちをされるとか、野良犬からさえそっぽをむかれるとか、飲みかけのビールをさげられるとか、」で、
「そんなコメディのような状況のなかから時折顔をのぞかせる狂気」を、「チャールズ・ブコウスキーに倣えば「ありきたりの狂気」」と言う。

 では、私のこれらは果たして、“ありきたりでない”狂気と言えるだろうか。
 こんなすべてがひっくり返るような、自分にとっての一大事でさえもひょっとしたら、“ありきたり”の中に含まれてしまうのかもしれない。そう考えると苦い笑いがこみ上げる。
 狂ってもありきたり。なんだか妙なところで落ち込ませられる。


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心が動く(又吉直樹と星野源)

 映画や音楽に涙が溢れて止まらない、みたいなことは私の中でしょっちゅう起こる。しかしこれが小説になると、なぜだかほとんどない。
 そんな私が、読みながら思わず泣いてしまった。
 又吉直樹著『火花』である。

「僕を嫌いな人達、笑わせてあげられなくて、ごめんなさい。」

 漫才師である主人公のことを、私はどうしても、作者である又吉と重ね合わせて読んでしまっていた。その彼(徳永)が、
「笑わせてあげられなくて申し訳ないと思った。常に芸人が面白いという幻想を持たせてあげられなくて残念に思った。」
 と言う。
 又吉自身の人柄に触れたようで、私はその、謙虚さというか、心根の優しさというか、“愛”みたいなものに打たれ、涙が出たのだった。


 小学生の時、ウンコを漏らしたことで軽いいじめに遭い、パニック障害から不安神経症を発症した星野源
 その暗い過去に、私は勝手に親近感を抱いてしまったりしていたが、そこには、彼と私とを決定的に分かつ部分があった。
 星野はそれでも、他者に対する“愛”のようなものを失くさなかった。彼の楽曲を聴けばよくわかる。
 また自分を“ネアカ”だと称する彼の、持って生まれた性質なのかもしれないが、その暗さをユーモアへと変換させたことは、彼の偉大な強さであり、作品の深さになった。


 この二人の作品を前にすると、彼らの肌の温かさを思い知らされる。
 “愛”のようなものがなければ、人の心は動かない。人から“愛”などいただけない。
 そしていつまで経ったって、私は私を救えない。

 

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かつて少女だった、すべての女たち(『ヴァージン・スーサイズ』)

 『ゴッドファーザー』の監督フランシス・フォード・コッポラの娘、ソフィア・コッポラの初監督作品『ヴァージン・スーサイズ』。
 オシャレである。音楽もファッションも、雰囲気も。
 その底流を、一貫して“陰”が流れ続けている。
 
 印象的なセリフがある。
 映画冒頭で、末娘13歳のセシリアが自殺未遂をはかる。手首に包帯を巻かれ、ベッドに座るセシリアに医師は嘆く。
「人生の辛さもまだ知らない年なのに」
 それに対し、彼女は答えるのだ。
「先生は13歳の女の子になったことないじゃない」

 十代の頃、私にも、最も死に近付いた時期というものがある。
 その期間は、一日中部屋に引きこもり、家族とさえほとんど口を利かず、すべてが苦しく、毎日“死”について考えた。
 それほどまでにあの頃の私を絶望させていたリアルな感情を、この身で“感じる”ことは、もう決してできない。
 かつて13歳の女の子だった者も、13歳の女の子の気持ちを忘れてしまう。

 今生きている大人の女たちは皆、あの、少女の時代を生き延びただけですごいのだ、というような言葉を目にしたことがある。(この作品の中だったか?)
 “思春期”という最もはかなく危うい時代を、生き抜けたというだけで。

 果たしてそうだろうか、と私は思う。
 我々は、“生き延びてしまった”のではないか。
 今、そこに伴うはずの痛みに怖気づき日和る心が生まれ、「死ぬしかない」と思い詰めるまでのひたむきさを失った。
 鈍感になり、「死ぬほどではない」と日々をやり過ごす。自分の周囲を覆う殻というよりも、自分自身の皮膚がどんどん分厚くなっていくようなその感覚は私に、時に醜いと感じさせる。
 それは、喪失である。あの頃の、自分や世界に対する切羽詰まった純粋な潔癖、まさに純潔を失ってしまったのだ、と思う。

 むき出しの、生身の魂はほとんどすべてから傷を受けた。自分で傷をつけて、世界から傷つけられて、鈍くならなければならない、今のままこの鋭さのままでは生きられないと知っている。
 今が自分の中で一番美しい時期だということも知っている。やがて老いがやって来て、後はどんどん劣化していくだけだということに、絶望する。それが若さだった。
 若さとは、無謀であり無知であり、視野狭窄。短絡的であり、絶対的な“歓び”の経験も少ない彼らは、その後の人生をも比較的簡単に捨ててしまおうとする。
 あの頃の私にとって、未来はおそろしいだけだった。
 “死”に対する恐怖より、それよりも、ただ生きていることがつらかった。
 あの時期以上のつらさはまだない。今の私は、あの時期によって生かされている、とも言える。

 死にきれなかったかつての少女は、時折ぼんやり途方に暮れる。

 

 

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私の好きな男(望月峯太郎ー1人の中のギャグとシリアスー)

 先の日記で“マンガ”についてお話ししたが、私には『二次元での好きな男ベスト3』というものが燦然と輝いて存在する。もう十年以上、それは変わっていない。
 そのベスト3を、今回こちらで発表させていただこう。

うる星やつら』の諸星あたる

『タッチ』の上杉達也(タッちゃん)

そして不動の一位が、
バタアシ金魚』の花井薫である。

 ソノコ君のことが大好きで、その彼女からはつれない態度を返されるが、思い込みの激しい彼はもうすっかり亭主関白。大好きな女相手にビシバシ手を上げる。
 あんたが勝手につきまとってんじゃない、と突っぱねるソノコに
「つきまとォのが俺の立場なんじゃない」
 彼は当然のように答える。
 ソノコいわく「人に笑われること平気で言うしフツウの神経じゃない」。まさに私の萌えツボなのであった。
 そのうち彼は水泳にもアホほど素直に、まっすぐがむしゃらになっていくのであるが、いわゆる純粋なスポ根ものではない。結構ふざけている。が、その中で唐突に、胸を熱くさせるものが現れたりするのだった。

 作者・望月峯太郎(現・望月ミネタロウ)はのちに『ドラゴンヘッド』『東京怪童』などシリアス路線に移行する。
 『バタアシ~』を私はギャグマンガとして捉えているが、セリフや、そこに詰められた中身には、単純に人を笑わせるだけではない、何か、時折読む者をハッとさせるようなものが確かにあった。作者が果たしてこれを一体どういうつもりで描いているのか、読んでいて、“なんか変”なのである。
 一方これに対し、『浦安鉄筋家族』と並んで当時の小・中学生をアホの虜にしたギャグマンガ、『稲中』の作者・古谷実がのちに『グリーンヒル』『ヒミズ』など、暗くドロドロと陰鬱な作品を描いたのには、少なからず衝撃を受けた。その潜在的なものを、私は見抜けなかったからだ。
 また『ぼのぼの』の作者・いがらしみきおは、『I(アイ)』というとんでもなくブッ飛んだマンガを描いたが、一見ほんわかギャグマンガのように見える『ぼのぼの』が、あれはそもそも壮大な哲学だった。

 話は逸れるが、『バタアシ~』の中で、花井薫が「俺はビートルズの「レット・イット・ビー」っての大嫌いなんだ!」と叫ぶシーンがある。
 また、よしもとよしとも青い車』収録マンガ(タイトル失念)では、陸から遠く離れた沖で一人漂う男に「なすがままに、なすがままに」とカモメが諭すのだが、男は「うるせえよ」と即座に吐き捨てる。
 天下のビートルズにケンカを売る二人の男に、私はなんだかスカッとした覚えがある。

 

 さてはじめに述べたこのベスト3。
 彼らに共通する魅力、当事者である私の目には明らかなこの好みが、わかる方にはわかっていただけるのではないかと思っているのであるが、果たしてどうだろう。

 

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影響しあって、殺しあわない(坂元裕二『最高の離婚』)

 連続ドラマ「最高の離婚」を拝見したとき、この“坂元裕二”さんという脚本家は若い方なのかなという印象を持った。
 のちに、坂元氏がフジテレビ“月9”枠の伝説的連ドラ「東京ラブストーリー」の脚本を手掛けた大御所だと知り、私は改めて驚かされた。
 その、イマドキ感に。

 連ドラを毎週欠かさず観る、という習慣も長らく失くしてしまい、「それでも、生きてゆく」、「Woman」、「問題のあるレストラン」……その他数ある坂元脚本ドラマのどれもきちんとは観られていない。

 ここでは、二時間ドラマスペシャルで放映された「最高の離婚スペシャル」を取り上げてみる。
 何といってもこのドラマの魅力は、その“会話”にある。登場人物たちのキャラクターもまたおもしろいのであるが、彼らが小気味よく打ち合う、ユーモア溢れる会話のラリー。
 その中に坂元氏は、絶妙な固有名詞を持ち出してくるのである。
 例を挙げると、
(“ヤング宮崎駿”と称された三徳(岡田義徳)が、物真似をしろとせっつかれて)
「……生きねば」

ミスターチルドレンのメンバーで、桜井さん以外だと誰が好きですか?」

「こんなテラスハウスに出てきそうな女性と……」

「表向きは独身、中身は妻、です」
「コナンみたいですね」
 
 という具合である。
 まさに我々の普段の会話には、このように固有名詞がふんだんに盛り込まれているものだ。(しかしテレビドラマなどでは、おそらくそう簡単には使用できない制約やリスクがあるものと思われる)
 この目の付け所、そのチョイスのセンス。いわば坂元氏自身のおもしろセンスではなかろうか。
 これこそが、観ている者に感じさせる“イマドキ”感の正体の一つである。

 また、ツイッターでつぶやかれていたら思わずファボってしまいそうな名言も数多くある。
「まあ、モテて浮気しないのとモテなくて浮気しないのは違うからね」

「男の浮気を一回許したら、男は女のことを母親だと思うようになるんです。……許したら駄目だよ。一回でも裏切られたら捨てなきゃ駄目なんだよ」

 棘のように、心を刺したセリフがある。
「そのままでいいの。無理して合わせたら駄目なんだよ。合わせたら、死んでいくもん。わたしがあなたの中の好きだったところがだんだん死んでいくもん」
 そして結夏(尾野真千子)は光生(瑛太)に別れを告げる。

 ところで私は基本的に、ヘラヘラした男が好きである。一緒にいると、私もヘラヘラしていられる。
 しかし時折どうしても、どうしようもない私の暗さや深刻さは顔を出す。
 自分を長く生きてきた人間が、他人からの影響によってそう容易く根本的な性格まで変えたりしないにしろ、時として気分は相手に引きずられてしまう。
 たとえば“ポップで平和”だとか、周囲からそんな風に評されるようなその人の良い部分、私が好きだと思う部分に、翳りを差してしまうこと、まして私が殺してしまうようなことがあったら、それはなんだかとても悲しいことであるな、と勝手にしんみりしてしまったのだった。

 最後になるが、脚本とはやはり演じてもらってなんぼ、と個人的に感じた。
 脚本を文章として読み、自分の脳内役者にセリフを言わせるより、瑛太、尾野真千子真木よう子綾野剛が息を吹き込み、光生、結夏、灯里、諒がそこで生きるドラマを観る方が、私は断然おもしろいのであった。

 坂元氏は現在、2016年1月クールの月9ドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」の脚本を手掛けている。
 観たい観たいと切望しながら、諸々の事情によってそれはまだ叶っていない。

 

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私のマンガ遍歴(南Q太~宮崎夏次系)

(つづき)

 引きこもり期。この時期が一番マンガを読んでいただろうか。量も、またジャンルでいっても。
 南Q太かわかみじゅんこなどの『フィーヤン』系。その冷めた目線、汚れた女、どうしようもない男、セックス。そこで垣間見た、すれっからしたオトナの世界は、その後の私を、恋や男に対して必要以上にひねくれさせたかもしれない。
 中学生の頃のような、恋に託す素直で甘酸っぱい気持ちはもうなくなりかけていた。
 また、雁須磨子(「いちごが好きでもあかならとまれ。」が大好き)、架月弥といったBLマンガに触れたのもこの頃である。現在BLものは一切読まないが、BL界隈から出てきた作家さんには好きな方が多い。
 妹から『花とゆめ』コミックスを借りていくつか読んだ中で、緑川ゆきの「あかく咲く声」が好きだった。「フルバ」「カレカノ」には大してハマらず。
 よしもとよしともの「青い車」は、特にその中の「オレンジ」がなんだか心に沁みた。よしともマンガの淡々とした雰囲気が、とても好きである。
 毎回一つの作品を取り上げて語り合う『BSマンガ夜話』(不定期・NHK BS2)では、いしかわじゅん夏目房之介、太っていた時代の岡田斗司夫など知識人たちが熱く語る、それぞれのマンガ考、その視点、すべてが非常に面白く、学びの気持ちで熱心に観ていた。
 ちなみにこの頃私はずっと、完全なる自己満足のための、絶対誰にも読ませないマンガをシコシコ描いていたのであるが、一度思い立って『別マ』の賞に応募したことがある。結局、その一度きりになってしまったが。

 そこからだいぶ間があいて、最近。気になる作家さんといえば渡辺ペコ、新田章、志村貴子、河内遥……などだろうか。個人的に、近頃はかわかみじゅんこ的絵柄が流行っているのか?というイメージを持ったが、何しろ数を読んでいないためよくわからない。
 あいかわらず少女マンガにはこそばゆい拒否反応を示してしまうが、安藤ゆきの「町田くんの世界」を表紙買い(久方ぶりのマーガレットコミックス)したところ、これがなかなかよかった。今はこういう少女マンガもあるのだな、と思ったのだった。

 そして、とにかく度肝を抜かれたのが宮崎夏次系。
 現在最も続刊を心待ちにしている作品が近藤聡乃「A子さんの恋人」である。

 だいぶ駆け足になってしまったので、いつか作品ごと、作家さんごとに取り上げて語ってみたくもある。

 

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